翻訳者一覧
明治期に訳語を作った人物たち

明治時代を代表する啓蒙思想家・教育者。豊前国中津藩(現・大分県)の下級武士の家に生まれ、幕末期に蘭学・英学を修め、三度にわたる欧米使節団への随行で西洋の実情を直接見聞した。
7語の訳語
明治時代の哲学者・啓蒙思想家。石見国津和野藩(現・島根県)の藩医の家に生まれ、幕府の命でオランダに留学してコント実証主義やミル論理学などを学んだ。帰国後は開成所(後の東京大学)で教鞭を執りながら、西洋哲学・心理学・論理学の日本語化に精力的に取り組んだ。
51語の訳語
明治時代の思想家・政治家。土佐国高知藩(現・高知県)の足軽の子として生まれ、長崎でフランス語を修めた後、フランス公使館の通訳として渡仏し、ルソーをはじめとする近代社会契約論に深く傾倒した。
4語の訳語
明治時代の官僚・政治家。肥後国熊本藩(現・熊本県)の藩士の家に生まれ、藩校で漢学を修めた後、明治政府に出仕してフランス・ドイツへ留学し、欧州各国の憲法や法制度を精力的に調査した。
1語の訳語
明治時代の政治家・外交官。薩摩藩(現・鹿児島県)の藩士の家に生まれ、藩命でイギリスに留学した後、アメリカにも渡り西洋の社会制度・教育思想を広く吸収した。帰国後は外務省に入り、初代駐米公使として日米間の外交実務を担いながら、英語普及論など急進的な文明開化論を唱えて物議をかもした。
1語の訳語
肥前国大村藩(現・長崎県)の藩医の家に生まれ、大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修めた後、長崎でオランダ人医師ポンペに西洋医学を学んだ。明治4年には岩倉具視の遣欧使節団に加わり、欧米各国の医学教育・衛生制度を直接視察した。
1語の訳語
長崎生まれの英語学者・翻訳家。長崎英語伝習所で英学を修め、幕府および明治政府の通訳として活躍した。長崎・横浜を拠点に英語教育と翻訳事業に携わりながら、西洋の知識を日本語に移し替える作業に尽力した。
1語の訳語
美濃国大垣藩士の家に生まれたジャーナリスト・実業家・英語学者。大村益次郎・佐久間象山に蘭学・英学・砲術を学び、明治維新後は外務省で通訳翻訳方を務めた。横浜で活版印刷所・日就社を創立し、出版・新聞事業の近代化を牽引した。
1語の訳語
江戸生まれの啓蒙思想家・教育者。昌平坂学問所で佐藤一斎に儒学を修めた後、1866年(慶応2年)に幕府遣英留学生の監督として渡英し、西洋の思想・教育制度を直接学んだ。帰国後は静岡に移り、明治維新の混乱のなかでサミュエル・スマイルズの『Self-Help』を『西国立志編』(1871年)として、J・S・ミルの『On Liberty』を『自由之理』(1872年)として翻訳刊行し、いずれも当時の青年層に広く読まれた。
1語の訳語
三河国吉田藩(現・愛知県)の藩医の三男として生まれ、漢学・蘭学を修めた後、1868年(慶応4年)に慶應義塾に入学。戊辰戦争に際して藩命により帰藩し各地に転戦したが、戦後に再入塾して歴史会読・窮理書素読などの科目教員を担当した。その後、太政官から大学出仕の命を受け大学南校教授を経て文部省に入った。
2語の訳語
備中国足守藩(現・岡山県)の藩士の家に生まれ、中天游の私塾で蘭学・医学を学んだ後、江戸で坪井信道・宇田川玄真に師事し、さらに長崎でオランダ人医師ニーマンのもとで直接西洋医学を修めた。1838年(天保9年)に大坂に適々斎塾(適塾)を開設し、以後25年にわたって医業と蘭学教育に従事した。適塾の門弟には福沢諭吉・大村益次郎・橋本左内など幕末・明治期に活躍した人材が多数含まれる。
1語の訳語
筑前国太宰府(現・福岡県)の医師の家に生まれ、1877年に東京大学に入学して哲学・政治学を専攻、フェノロサや中村正直らに学んだ。1880年卒業後、外山正一・矢田部良吉との共著で近代日本初の新体詩集『新体詩抄』を刊行する一方、日本最初の哲学辞典『哲学字彙』(1881年)の編纂を担い、西洋哲学の体系的な日本語化に先鞭をつけた。1882年に東京大学助教授となり、翌1884年にドイツへ留学してハイデルベルク・ライプツィヒ・ベルリン各大学でドイツ観念論哲学を修めた。
8語の訳語
肥後国(現・熊本市)の藩士の家に生まれ、熊本洋学校でアメリカ人教師L・L・ジェーンズのもとキリスト教の薫陶を受け、1876年に洗礼を受けて熊本バンドの一員となった。その後、同志社英学校に進学して新島襄に師事し、1879年6月に卒業した後に上京して組合派の教会を設立した。
1語の訳語幕末の旗本・静岡藩士の出身で、明治維新後に陸軍に入り、フランス語軍事文書の翻訳を専門とした軍人。明治6年頃に陸軍少佐に任ぜられ、明治9年(1876年)にフランス語の歩兵演習マニュアルを訳した『仏国歩兵陣中要務実地演習軌典』を刊行した。この翻訳において、フランス語renseignement(敵情に関する報知)の訳語として「情報」という語を初めて用いたとされ、日本語における「情報」の語の生みの親として知られる。
1語の訳語
東京生まれの動物学者。1882年に東京大学理学部動物学科を卒業し、翌1883年に助教授となる。同年、1877年(明治10年)に来日して東京大学で進化論を講義したアメリカ人動物学者E・S・モースの記録をまとめた『動物進化論』を刊行し、日本で初めて進化論を体系的に紹介した。これが英語evolutionの訳語「進化」の普及に決定的な役割を果たした。
1語の訳語
越後国頸城郡下池部村(現・新潟県上越市)の農家に生まれ、長崎でアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズに英学を学ぶとともに、西洋の郵便制度と切手の仕組みを初めて知った。幕末期に幕臣となった後、明治維新後は新政府に出仕し、駅逓頭として近代郵便制度の設計と実施を一手に担った。1870年(明治3年)に欧米各国の郵便事業を直接視察し、翌1871年(明治4年)3月1日に東京・大阪間で官営郵便事業を開始した。
2語の訳語
薩摩国鹿児島城下西千石馬場町(現・鹿児島市)生まれの教育者。幼名は康四郎で、4歳の時に母方の中馬家に養子入りした。第一高等中学校(現・東京大学教養学部)では二塁手として野球に親しみ、卒業時に先輩から「ベースボール部史」の執筆を依頼されたことが「野球」命名の直接の契機となった。
1語の訳語水沢藩(現・岩手県)藩士の次男として生まれ、13歳で蘭方医の坂野長安に入門して蘭学を学んだ後、江戸・京都に出て地理学・蘭学を修めた。天保13年(1842年)に津山藩医・箕作阮甫のもとに入り、弘化元年(1844年)に正式に養子となった。
1語の訳語
江戸後期の蘭学者・医師・化学者。江戸の大垣藩医の家に生まれ、のちに津山藩医で蘭学の名門であった宇田川家の養子となった。オランダ語を通じて西洋の医学・植物学・化学を学び、薬学や本草学の枠を越えて近代科学の体系そのものを日本語で紹介した。
27語の訳語安芸国山県郡川小田村(現・広島県北広島町)の庄屋の家に生まれ、通称を岡本周吉、のちに古川節蔵・古川正雄と名乗った。1856年に緒方洪庵の適塾へ入り、蘭学と兵学を学んだのち、福沢諭吉に従って江戸へ出て慶應義塾草創期の門下生となった。塾頭として塾生の指導にもあたり、福沢が最も親しく遇した弟子の一人として知られる。
1語の訳語
伊予国宇和島藩(現・愛媛県)の藩士の家に生まれ、1876年(明治9年)にイギリスへ留学してロンドン大学で法律学を修め、さらにドイツに転じてハインリヒ・デルンブルヒらのもとでドイツ法・ローマ法を研究した。帰国後の1881年に東京大学法学部講師となり、翌年から帝国大学法科大学教授として1912年まで在職、近代日本の法学教育の基礎を築いた。
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